2014年12月17日水曜日

人生の豊かさを決定する2人のレディース ラクシュミーとサラスワティ

ラクシュミー


豊かさの象徴といえば、インド中で一番人気の女神、ラクシュミー

財産も、成功も、勝利も、円満家庭も、子孫繁栄も、幸運も、全てラクシュミーの表れです。

一番人気、ラクシュミー

上に書いてある言葉は「श्री [śrī](シュリー)」といって、「富」という意味です。

ラクシュミーはいつも両手に蓮の花を持っています。

それゆえに、「पद्मिनी [padminī](パドミニー)」、もしくは

「पद्मवती [padmavatī](パドマヴァティー)」と呼ばれます。

パドマとは、蓮の花のことですね。

アーサナ(座)もパドマです。

普通は空いている左手で、前で富を祈る人に対してBlessingをしています。

右手からは金貨がザクザクと流れ出ています。

ラクシュミーを崇める人が、肖像の足に触れたり、

そこにサンダルペーストなどをつけてプージャーが出来るように、

どの肖像も大抵は右足が出ています。

インドでは、先生や両親に挨拶をするときに、足を触る習慣があります。

私にグレース(恩恵)をください、というゼスチャーです。

宇宙全ての富の総称を、ラクシュミーといいます。

黄金はラクシュミーのシンボルです。

お金、宝石、貴金属、土地、成功、名声、勝利、配偶者、家庭、子供、孫、

商売繁盛、そして幸運全般、全てはラクシュミーの表れです。

だから、お金も子供も、「私の努力で私がゲットした私のもの!」ではなく、

ラクシュミー女神自身として、大切に崇めるのです。

そんな姿勢でお金や家族に接することが出来たら、人生すばらしいですね。

とにかく、ラクシュミーあってこその人生なので、

ラクシュミーの祝福を得るために、皆こぞってラクシュミーを崇めます。

ここにラクシュミーありき。

ラージ・ラヴィ・ヴァルマの油絵のラクシュミーはとっても素敵。
ヒンドゥーの神々のピクチャーの検索をして思うのですが、

もっと沢山の種類の肖像画があれば喜ばしいことですね。

美大や芸術学校の課題にとても良い題材ではないでしょうか。

その時は、深いインスピレーションが湧くように、

私がヒンドゥーの神々についてレクチャーしに行きますから、お声を掛けて下さいね。

よろしくお願いします。



黄金色にキラキラ輝くラクシュミーの祝福は、人間なら誰でも追いかけます。

ラクシュミーが居なければ、仕事も趣味も勉強も、

家庭も政治も恋愛も、何も始まりませんからね。

そんな訳で、絶対的一番人気の座をほしいままにしている女神ラクシュミー。


サラスヴァティー


熱狂な崇拝を受けるラクシュミーを横目に見ながら、

ヴィーナーを弾いているのは、芸術、知能の女神、サラスヴァティー。

スタンダードなサラスヴァティーの肖像画

「みんなラクシュミーばっかり崇拝してさ、ボロロ~ン」と、

独りさみしくヴィーナーを弾いているのかと思いきや、余裕の笑顔。なぜ?



サラスヴァティーの特徴は、まず、真っ白な服。ヴィーナー。

左手に持っているのは、ヴェーダの文献。全ての知識の象徴。

右手に持っているのは、スパティカ(クリスタル)のマーラー(数珠)。

クリスタルクリアーな知能、数珠はジャパ(マントラを唱え続ける修行)をあらわしています。

彼女もパドマに座っています。乗り物は白鳥。

白鳥は、真偽を見分ける力(ヴィヴェーカ)の象徴です。

音楽を習う人はもちろん、全ての形の芸術と学問に関わる人々から崇められています。

右足が出てるでしょ。
ところで、サラスヴァティーの余裕の微笑みの理由は何だったのでしょうか。


人間、どんなに物質的な富に恵まれていたとしても、

知能が無ければ、豊かさの価値を理解出来ません。

猫に小判どころか、財産のせいで身を滅ぼしてしまいます。

どんなにお金を積んでも、サラスヴァティーのグレースが無ければ、

本一冊、一遍の詩すら、理解し、鑑賞し、味わうことは出来ません。

感謝できる心が無ければ、どれだけの富と名声、人間に囲まれていても孤独です。


「カギを握っているのは、結局私なのよ!ボロ~ン」






2014年12月16日火曜日

インドの智慧を、混迷する日本社会でどう生かし、どう生きるべきか?

解決策は「giving」を自分の価値観の上に置くことです。
かなり根本的な発想の大逆転ですが。

目の前の人が助けを必要としている時に、「誰がやるの?」「誰が費用持つの?」と周りを見渡すのではなく、自分が進み出るのです。
「こんな人助けを続けてると、時間も労力も貯金もすぐに底をついちゃうよ!」と心配になりますが、正しい事をやり続けていると、時間と労力は湧き出てくるようになり、理解や後押しをしてくれる人もどんどん現れます。

インドは「giving」という価値がまだ生きています。私の恩師プージャ・スワミジは、インド全国で大勢の人々に教育や医療を提供する施設を作っています。

私もリシケシで「giving」に触れ、教科書や教材、食べ物等、そして教育の機会を与え続けています。

インドならではの体験「バンダーラ」
サドゥーやヴェーダを勉強する生徒たちに食事とダクシナ(お金)を捧げるという伝統です。
人生観ががらりと変わります。

まだほんの5,6年ですが、私が編集・印刷に関わった文献は数え切れないほどになりました。著書も10冊近くになり、世界中で使ってもらっています。大量印刷のスポンサーをしてくれる人も出てきて数千冊をアシュラムに寄付出来ました。これからもどんどん与え続けたいです。

与える立場に立つ為に大金持ちになる必要はありません。2ルピーしか持っていない乞食でも、となりの乞食に1ルピーを与える心の大きさを持てるのです。まず、小さなことから、自分の周りから始める。
優しさや心の余裕さえも、最初は持てなかったとしても、与えているうちに生まれてくるものです。
「giving」は今までの幸福基準に、新しい次元を開拓してくれます。



= 伝統から「ダルマ」という幸福価値を学び、実践する = 

日本は20世紀に文化も何もかなぐり捨てて資本主義社会に順応して、「より多くの生産と購買消費=より幸福」という価値観だけになってしまいました。

これはアメリカの価値観です。

ヴェーダーンタ用語でいうと、アルタ(security)とカーマ(desire)のみで、ダルマ(ethic, 道徳価値)が欠けているのです。

インドは文化財産が強すぎて、資本・競争社会への順応に時間がかかっているので、イラついた西側社会が「社会問題」とレッテルを貼っているのです。

日本だけでなく、世界全体で貨幣・物質的富の極化はより進められ、大多数はメディアに流されるがままに搾取され続けるでしょう。
メディアに流されるとは、正しい情報と考え方を得る努力をしていない、ということです。
発達した脳みそは、人間に与えられた特権です。思考力という特権を正しく使えた人は、人間として本当に豊かな人です。

政治と経済が私たちに与えてくれるのは、それぞれ、アルタ(security)とカーマ(desire)だけです。
それさえも、完全なレベルでは無理です。
どの程度のアルタを政府に保証してもらおうとしているのか、どの程度のアルタは政府に頼らずに自分で確保するべきか。
経済が与えてくれるカーマに、どの程度頼るべきか。

自分の幸福の基準にアルタとカーマの2次元しかなければ、政治と経済の在り方に振り回されます。
「ダルマ」という幸福価値を伝統から学び、実践しながら深めていくとき、人間としての本当の豊かさがあるのです。





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以上は、Facebookからの質問に対しての私からの回答でした。
多くの人にも届けたいと思ったのでシェアします。

ちなみに、質問は:

経済至上主義に左右されることなく豊かで文化的な生活を人類が差別なく生活することができる社会のために私たちは何をするべきなのでしょうか。
どう生きることが平和な世界にと繋がることができるのでしょうか。





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カースト制度について


2014年12月13日土曜日

カースト制度について

インドやヨガに興味のある人には必ず知ってもらいたい事実 -


学校の社会科の勉強では、インドといえばヒンズー教、ヒンズー教といえばカースト制度、と習いました。
カースト制度と聞くと、「宗教が背景の悪習慣」というイメージがありますが、そのイメージはどこから来たのでしょうか。
今回は、このカースト制度について、しっかり学んで見ましょう。


歴史上どの時代や地域でも、だいたい社会構造のベースは世襲分業制であるように、
ヒンドゥー文化社会は世襲分業制がベースなっていました。

それを、カースト制度という悪名高き社会問題に発展させたのは、植民地支配者の作為的な政治とメディアです。

いろんな部署があり、統制がとれて皆が繁栄している会社があったとします。
その会社を潰す為に、それぞれの部署員が互いに憎みあうように入れ知恵したのがイギリスです。

自分たちの宗教や職業にコンプレックスを持たせ、社会分裂を起こし、社会構造を弱体化させる事を目的に、イギリスをはじめとするヨーロッパからの宣教師らがインド人を教育し始め、それが今でも続いているのです。



ちなみに、ヴェーダは、「人間は与えられた義務を果たしながら社会に貢献することによって、人間として成長出来る」と教えています。

どの職業に就くか、という職業ステータスなどは問題ではなく、どれだけちゃんと自分の責任が果たせられるか、が問題なのです。


「じゃあ、自分の義務を果たして社会の貢献者になって、人間として、本当の大人として成長するぞ!」と決めたら、「でも、私の義務、天職って何よ?」という問題にぶつかります。

「義務」の定義は、「その時その場所でその人に与えられた、やるべきこと」です。
この定義だと、社会や家族の責任はもちろん、通りがかりの人を助けるのも義務になります。

定職に関しては、自分の家族のしている職業を手伝う、引き継ぐのが自然であり、標準となっています。家業でなくても、社会から期待されている役割、自分に回って来た役割が、自分の運命、自分の役割です。
わざわざ自分の天職探しに時間と労力を費やすような無駄が省けて、その分自分の仕事と社会貢献に専念できます。

学歴や勤め先、職種にステータスの上下をつけて、就労者同士でも競争させて、「外資系の大企業」が勝ち組で、「地元の小さな家業」が負け組、という構図は、資本主義に都合の良い構図です。

資本主義により、「自由競争」が推奨され、労働者達を「自由」に競争させて、あたかも「自由に職業を選んでいる」と思い込ませて搾取する仕組みが、経済発展国の社会構造です。

社会貢献や人間としての成長よりも、競争に勝つことが優先されているが故の、経済発展国なのですから、国民が生きていることに虚無感を感じるのは当然ですね。





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2014年12月12日金曜日

知られざるインドの事情

現代インドの「改宗」宗教戦争


インドではここ何世紀か、クリスチャンやムスリムによる、強制的・暴力的・非道徳的な改宗戦争が行われています。

ヒンドゥーの村から子供を誘拐して殺害し、村人全員がクリスチャンやムスリムに改宗しなければ更に子供を殺す、という脅しをして、村全体を改宗させる、というのがよくある手口だそうです。

イスラムの男子は、ヒンドゥーの女子と結婚をすると報奨金がもらえるのだそう。(インドすぎる。。。)

慈善事業は改宗が目的


ソニア・ガンディやマザーテレサ(残念ですが)の影響で政治や寄付を通して得た莫大な資金は、改宗活動に充てられています。
(マザーテレサは集まった莫大な寄付金はヴァチカンの改宗活動資金に回し、彼女の病院に収容されている病人達は、貧しく苦しみ続けることを善しとしていたそうです。)

「無宗教」を掲げた政府が、ヒンドゥーの寺院の寄付や賽銭を全て徴収し、それを「少数派」であるクリスチャンやムスリムの宗教活動(メッカへの巡礼費用はインド政府持ち、など)、改宗活動に充てているのです。

メディアぐるみの改宗戦争


世界でもインド国内においても、メディアはクリスチャンやムスリムよりです。

毎年何万人という単位でヒンドゥーからクリスチャン・ムスリムへの大量強制改宗が行われていることはメジャーなメディアでは報道されていません。

しかし、改宗後に「やっぱりヒンドゥーの方が良かった、、」と、数十人や数百人が再改宗をすると、メディアがこぞって「大量改宗!」と騒ぎ立てています。

最近そういう事がニュースになっているのを見たので、インドの現状をシェアしました。

インドをインドたらしめているヒンドゥーの文化は、「経済発展国」になるのと引き換えに、作為的に急速に破壊されています。

全人類の財産と呼ばれるにふさわしい、インドの伝統の智恵が後世に伝えられますように。



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