2015年1月21日水曜日

[12] 2.アダルマ(ダルマとは別の行動)

サンスクリット語では、名詞の前に「ア」という語を付加して、その名詞の否定や反対の意味を表すことが出来ます。

ダルマに「ア」を付けて「アダルマ」となります。その時その場所で自分が取るべき行動がダルマなら、それ以外の行動はアダルマと言えます。同じように、「ヒムサー(他に痛みを与えること)」の反対が「アヒムサー(非暴力)」です。





自分が知り得る限りの情報において、自分が判断する限りでの最善の行動ですから、知らずして他者を傷つけてしまったり、良かれと思ってしたことが逆に取られたりすることもあります。また、ダルマ・アダルマの論議に絶対は存在しません。常に相対的な議論です。果物をひとつ食べるだけでも、それに関わるヒムサーは多々存在するでしょう。果物を育てる過程で駆除された虫達、運送の過程でも昆虫や動物が傷付いたり、運送に必要な石油や車両や梱包資材に関わる環境的負担、、、と考えたらきりがありません。先の「パンチャ・マハー・ヤッニャ」で紹介した、植物に水をやったり鳥に憩いの場所を提供したりする毎日の習慣は、生きるために避けられないヒムサーを中和する為の、祈りの行為とされています。知らずしても、望まずにしても、他の生き物に迷惑を掛けない様に気遣っていても、自分が生きる為には、他に迷惑を掛けずには生きていられないことを認識し、それに対して行動を起して調和を保つ為の方法が、この「パンチャ・マハー・ヤッニャ」で教えられているのです。

自分が生きる為に周りの生き物にかける迷惑を最低限にしようと考えると、自分の選択する食べ物は必然的にヴェジタリアン(菜食)になります。後にヴェジタリアニズムについて章を設けて詳しく説明しますが、食物連鎖のピラミッドの上方にいる動物を食べるということは、その下にある底辺の植物を多く消費していることになります。ヒムサーを最小限にする為に、食物連鎖の下の方から頂く、というのがヨーギーの選択です。ヨーガでいう菜食は、健康の為の選択では無く、アヒムサーという価値による選択なのです。

英語のヴェジタリアンの語源をラテン語の「vegetus(活力のある)」とし、「元気に生きる為なら何を食べてもOK」という解釈は、それはそれで構いませんが、ヨーガからは完全に切り離されるべき解釈です。なぜかと言うと、第一に、19世紀に初めて造語されたヴェジタリアンという英単語の語源がどうであれ、ヨーガの菜食という悠久の智慧とは全く関係が無いからです。菜食はアヒムサーがベースなのです。第二に、ヨーガとは単なる健康法ではなく、精神的成長の為の生き方だからです

ダルマの項で見てきたように、人間として生まれて来たら、何がヒムサーで、何がアヒムサーなのかは、誰でも必ず知っています。それなのに、実際に取る行動は、それに伴わない場合が多いのも人間です。何故なのでしょうか。

インドの歴史物語「マハーバーラタ」の中で、人間が出来得る限りの悪業を全て働いたドゥリヨーダナという王子は、「何がダルマなのかを私は良く知っているのに、それを行動に移せない。何がアダルマなのかを私は良く知っているのに、それから手を引くことが出来ない。」と相談役にこぼしています

動物だって殺されたら嫌なのだ、という当たり前の知識を持っているのにも関わらず、そして動物を殺して食べなくても十分生きていけるのに、「おいしいから、手軽だから、宣伝広告を見たから、食べたくて仕方ないから、健康と美容にいいから、みんなが食べてるから、みんなが食べてるのに自分が食べないと仲間はずれにされるから」といった理由で、人間は殺された動物の肉を食べます。

「殺してまで食べなくてもいいよ」と大らかに構えて食べ物を選ぶことは、特に難しいことでもなく、誰にでも出来ることです。

動植物に対して、殺したり、切ったり、閉じ込めたりするだけでなく、人間同士でも、殺したり、攻撃しあったり、奪い合いをしたり、不愉快になる言葉を使ったり、嘘をついたりしながら、人間は生きています。相手がそんなことをされるのを望んでいないことは重々知っているのにも関わらず、何かに押されるかのように、相手を傷つけてしまうのです。「他者を傷つけでもしないと、自分は幸せにはなれない。自分はそんな切羽詰った存在なのだ!」と宣言しているかのようです。このように人間をヒムサーに駆り立てる動力は何なのでしょうか?

その答は、先に出ている通りです。自分の自分に対する理解がごく小さくつまらないからです。「自分は他の生き物を、傷つけたり騙したりしないと幸せになるどころか、サバイバルさえも出来ない、そんなちっぽけな存在が、この私という存在だ」という理解です。このような自分に対する自分の理解は、どんなに巨額の財産を築いても、どれだけの権力と名声を手に入れても、改善されないどころか悪化するばかりのようです。自分は小さな存在なんだという認識が強ければ強いほど、それを穴埋めするための欲望も強くなります。欲望が強くなればなるほど、アヒムサーやアダルマの一線を越してでも、欲望を満たそうとするプレッシャーが強くなるのです。そして、欲望が満たされてやっと、自分が少し大きくなった気分になり、一時の幸せを感じられるのです。

しかし、そんな自分が抱いている自分自身への理解とは、そもそも正しいものなのでしょうか?自分というものは本当に、そんなにちっぽけでつまらない存在なのでしょうか?

自分の存在は今のままでも十分、動植物を育てたり守ったり、人間に対しても与えたり愛してあげられるくらい、大きな存在です。周りの人が自分を笑ったり、騙したり、悪口を言ったりしても、それらは自分の存在を脅かすものではありません。自分の大きさは、人の意見に左右されるものではなく、自分自身で認識するものなのです。

人間は、自分はとても小さな存在だという認識を持って生まれて来ます。年齢を重ねるごとにその認識は、多様性を増しながらより確固たる信念へと成長します。それが人間の自然のあり方なので、小さな自分を補強するために、安定や富、名声、権力を欲するのも自然のあり方です。それらの願望をダルマに沿って叶えるのは、人間の成長を促進してくれます。アダルマに走りそうになるのも人間の自然な傾向です。しかし同時に、それを止められる自由意志を持っているのも人間の特徴です。自分が起こすヒムサーの可能性に敏感で、行動の選択において常に意識的であるのがヨーガの生き方です。

人間の根本にある問題は、自分自身に対する間違った認識です。自分とは何かについての正しい知識を得て、それを常に意識に定着出来ていれば、自分をヒムサーに駆り立てる原因は無くなります。

では、自分についての正しい知識を得るにはどうしたらよいのでしょうか。ヴェーダやバガヴァッド・ギーター等の文献は教えます。ヒムサーを避けてダルマに生きるのが、知識を得る為に適した心を育てる方法であり、それこそがヨーガの生き方なのだと。